昭和42年06月24日 夜の御理解



 お道の信心の祈りの内容は、御礼とお詫びと願いの三つに別れておるといわれます。御礼お詫びそして願い御礼も申し上げなければならない事ばっかり、同時にお願いしなければおられない事ばっかり、と言うて愈々自分という者を、分からして貰うとお詫びしなければならない事ばっかりですから、そこの所が実感として礼、詫びそして願われると言う信心。そういう祈が、ばたばたと出来る様になりますと、御祈念が時間が二十分三十分では足らなくなって来る。
 繰り返し繰り返し御礼を申し上げても、御礼を申し上げても足りない。お詫びを申し上げても、是でお詫びが適うた言う様な所までいけんというて、願う所はまた雲の様にある。それが私共なんです。けれどもそこん所が私は本当に、出来る様におかげを頂く、今日はその私はお詫びと言う事に付いてですね。皆さんどう言う様な事を、詫びておられますか、祈りの三要素と言われる、その三つのお詫び、詫びと言う事をどう言う風にして詫び、どう言う様な事を詫びておられるでしょうか。
 私は最近会う人毎に言う事なんですけれども、現在教団ないのいろんな話を聞きましても、それから書いた物をみましても、問題を問題としてとこう言う様な、言葉が盛んに使われます。ですからそれは私の流儀でいくと、問題をお互いが、信心で頂いていこうと、云う事にならなければならない。そこにはもう、問題というものは、無いのだという風に私は申します。
 ところが実をいうたら、問題が余りにも多過ぎる。それは問題を問題にして、段々問題が問題を生んでいきよる。それでは問題の絶え間が無い、尽きる事が無い。問題を信心で頂いて参りますと、そこから私共の生き方が、自ずと分からせられるのである。自分の在り方に、自ずと改まなければおられないと言う事に、成って来るのである。私の教師の問題も、おかげでどうやら教師としてのお許しを頂いた。
 そこで矢張りここの信奉者の願いとしては、どうでも私を、合楽の初代教会長として、おかげを頂きたいとこういう。所がどっこいその、そうは問屋が下ろさないと言う様に、大坪勝彦をもって教会長としてあるのであるから、それでいいじゃないかとわざわざそのお父さんが、教会長にならんでもいいじゃないかと、そういう時だけ人が助かりさえすればと云う様な事を、成る程こちらはどうでもいい。
 もう教師の資格を返上してもいい。例えて云うならば、三代金光様がお道の教師としておかげを受けたがよかろうと、十七年前に仰って頂いた。その事をです、本当にあのその事を心に掛けさして頂いておかげを頂いて教師になる事が出来た。してみれば三代金光様への、もう云うならば言い訳ではそれで出来る様な物。一応は教師としておかげを頂いた。けれども事情が、例えば教師返上と言う様な事になるならば、それも又結構。そこには愈々問題が無くなるのである。
 対外的なその問題がふるっているのです。先日もある教会にここの福島さんという方がいっておる。所があんたんとこの教会は、殆どが他の教会から来た信者ばっかりじゃと。 だから問題があるんだと、それこそそういう、その先生からは聞いてはならない筈の先生から、その事を聞いて来た。で、私は思うたんです。成る程、他の教会から来ておる人達が随分あります。
 もう本当にどうぞ先生助けて下さいというて、やって来た人ばっかり。そこの教会では助からず、長年信心しておるけれども、助からず、信心が分からずに、それが信心を分からして貰、助けて頂くのであるからおかげを頂く。湯川先生じゃないけれども、金光大神の氏子としての、取り扱いをさして頂いた迄の事、こちらからモーションかけた訳でもない。そして思う。例えていうならば、此の御大祭にまぁ例えば千名以上で御座いましたでしょうか。千名なら千名の信者が、ここに集まっておったとする。
 そんならその中の何分が他の信者であるか、大半が他所の信者と言う様な事をいうけれど、もう本当にここに集まって来る信者の本当に何分かがそうした他所から来ておる信者があるのだと云う事、それとてもです。私がいうその例えば、なら問題をです、例えばなら、私の所の信者が他所の教会に行った時に、はぁあの信者は良い信者だったけれども、信心をやめて他所の教会に行ったと言う時に、はぁあの教会がうちの信者を取ったと言う所に問題がある。
 それこそ私の信心が至りませんから私の信心から離れていっただけの事。何で私がそれを追うか、問題があるのは自分の心の中にあるだけなのだと言う様な頂き方をすれば、ひとつも問題はない訳ですね。○○教会の信者がここへやって来た。そこの○○教会の教会長がです、成る程合楽いったけれども自分の信心の信心不足が、あちらへ信者を言わば取られたなら、盗られたでもいいから。
 だから結局取ったのが悪いのか、盗られたのが悪いか。盗られた無力の自分自身が相済まん事になってくるのである。するとそこには問題がなくなって来るのである。 そういう私は受け方、在り方是はまぁ直接、私の問題を例えにとって申し上げたんですけれども、お互いの上にもそういう問題が幾らもあろうとこう思う。子供が言う事を聞かない、どうして子供が言う事を聞かないか。
 子供が言う事を聞かない、親に背くと言う例えばそこに問題がある。どうして言う事を聞かないか、そりゃお父さん、ああたがこうだからですよ。何か私がそうか、もう愈々問題が問題をそうして生んで行くのです。けれどもそのお父さんがです、自分が言う事を聞かせきらん親なのだ。目に余る子供の姿を見てから、どうしてこの人ばっかり、何時までも分からんじゃろか。
 云う事を聞かんじゃろか言わずにです、自分自身の心の上に、子供の姿があるんだと云う事を解らしてもらう時にです、自分が反省して行く以外にはないと、同時にです、もう本当にッギリギリ、私がお詫びをする以外にはない。子供が言う事を聞かん事もです、私がお詫びをする以外にはない。私はですね、今日はその願い、礼、詫びと言う事のその詫びと言うこと、お互いがどういうお詫びをしているのだろうか、今日も教えに背いた一日で御座いました。
 今日もどうもいい加減な実意丁寧を欠いた一日で御座いました。神様相済みませんでした。と言う詫びる、成る程それも詫び、明日こそは実意の充実した一日でありたい。明日は本気で、お道の信奉者らしい生活さして頂きたいと言う願いをもって、その事を詫びていく、そう言う事も詫びてよかけれども、私は本当のお詫びというのはですね、そういう問題になる様な問題を問題とせずにです、自分の子供が言う事を聞かないと言う時にです、そういう問題をです。
 よくよく自分の心の中にそれを、問題として追求して参っておりますとです、もう神様にとても、とても子供どん責めるだんじゃない。只私が詫びるより他にはない。そこからです、もう真剣な助かり、もう心の底からの助かり、お詫びが出来る様に思うのです。それは自分が悪かったと思う事をです、詫びる事は皆んなが詫びで御座いましょうけれども、私はお道流にいう。
 お詫びというのは愈々自分自身が分からして頂いて、そこからお詫びが自ずとお詫びの言葉になって出て来るというお詫び、そこにはいよいよ自分がより、深められより高められ、より修行精神の上にも生き生きとした、修行精神が自ずと言わば、しみじみとした修行精神がそこから生まれて来るとこう思う。どうぞ私は今日はそのお詫びをですね、特に家庭なら家庭内に問題がある。
 その問題をです、いよいよ追求して参りますと、どこに追求するか、自分の心に追求する以外にはない。そこに問題が消えて行く、問題はなくなる誰じゃない彼じゃない。だけどね、その問題が自分の心の中にあると分かったらです、自分が詫びるより他にないのであります。そういうお詫びが出来る所から、信心は私は段々深められて行く、また高められて行くとこう思うのです。お詫びと言う事について申しあげましたですね。
   どうぞ。